喜多 明人-文京区立指ヶ谷小学校における金子麻貴さん転落死亡事故に関する見解

早稲田大学文学部教授 
同学会学校事故問題研究特別委員会事務局長
喜多 明人

はじめに

この文書は、文京区立指ヶ谷小学校児童転落事故を調査する会の依頼により、同会が作成した『文京区立指ヶ谷小学校児童転落事故調査報告書』(以下『調査報告書』という)および、筆者自身の当該小学校訪問、事故現場の調査等(2000年10月17日)に基づき、長年、学校災害研究に従事してきた立場から見解を述べることを目的とする。
なお、本件は、これまでのところ裁判といった形式をとっておらず、できる限り当事者間での話し合いにより、校内における子どもの転落死という痛ましい事故を二度と引き起こさないよう努力するという姿勢をとっていることから、必ずしも裁判所に提出する学術鑑定書のような書式をとらない「見解」として提案することにしたい。

Ⅰ 『文京区立指ヶ谷小学校児童転落事故調査報告書』の位置と役割

わたしは、今から10年前に、東京高等裁判所に『府中市立府中第九小学校校舎からの六年男子転落死亡事故(1988年3月15日)についての学術的意見書』(1991年12月8日東京高等裁判所第五民事部提出、以下「91年意見書」という)を提出したことがある。「学校紛争」に関して当事者間の話し合いでは決着がつかず、裁判所という第三者機関が介入し、そこでわたしも意見を述べたわけである。
しかし、その際にも感じたことであるが、できれば、当事者間では解決が困難ではあっても、このような最後の手段といえる公権力の介入による解決に行く前に、当事者に近い立場の人々の第三者的な関係改善の努力の中で、事故が教訓化され、二度と同じ過ちが繰り返されないよう具体的な手立てが講じられてほしい、それが子どもや教育の問題にかかわる人々の最低限の基本認識であってほしい、と考える。昨年、兵庫県川西市における市立中学校の熱中症死亡事故に関して、子どもの最善の利益をはかる「子どもの人権オンブズパーソン」という第三者機関が、調査および報告・提言を行い、その調整活動により各学校に周知されるとともに当事者間の関係改善に大きな役割を果たしたことが注目されている。(詳しくは喜多明人・吉田恒雄ほか編『子どもオンブズパーソン』日本評論社、2001年3月刊、参照)
本件に関する『文京区立指ヶ谷小学校児童転落事故調査報告書』は、被害者家族に寄り添いつつ、第三者性を有する弁護士、建築士、教職員などを会員とするプロジェクトにより調査、検討がなされたものである。この第三者的な関係改善の努力の一端としての調査報告書の位置と役割を確認し、この報告書を最大限生かして事故防止のために各学校に教訓化していくとともに、当事者間の関係改善に資することが期待される。それが亡くなった麻貴さんへの真の供養となると思う。

Ⅱ 高層空間に押し込められる子どもと「おとなの責任」

91年意見書で、わたしは、小学六年生潤君の転落死亡事故に関して、こう書いて結びとした。
 「校舎や住宅の高層化は、子どもの本意ではない。おとなの都合で高層空間に子どもを押し込めてきた現代という時代ゆえに「転落死亡事故」という不幸な事件が多発しているのである。・・・・・・・本件事故のごとき死亡事故の裁判は、二度とおとなの側が誤りを犯さず、同じ不幸を繰り返さないことに主たる目的がある。」
 私の専門である学校建築学では、もっとも理想的校舎論として土地問題を抜きにすれば「木造平屋建て教室型校舎」がのぞましい、と述べてきた。一階の窓から転落しても子どもが死ぬことはない。その自由さを奪ったのが校舎の高層化であり、できれば高層化を避けたいとのおとな側の気持ちを表現してきたのが、文部省の『学校設計指針』であった。 
そこでは、「小学校の校舎の階数は、三階以下を原則とする」(中学校は四階以下、表現を修正)とある。しかし、これとても、その後の地価高騰の中で小学校整備指針では次のように一部修正されてしまった。
「校舎等の建物は、3階以下の建築とすること。ただし、やむを得ない事情がある場合においては、4階とすることができる。」
それでも、5階の図書室は規制できたはずであるが、この整備指針は、法的拘束力がないために、無視されてしまったわけである。
残る頼りは、4階以上に教室を設置することを禁止した東京都の建築安全条例であるが、これとても「4階以上の階に教室その他の児童又は生徒を収容する室」について例外的に「安全上支障がない場合」には認めるように改正されてしまった。
 おとな優先社会の典型例といえようか。
 こと都市空間・施設空間に関する限りは、子どもの権利条約がうたった「子どもの最善の利益」はほとんど通用しないといってよい。しかし、少なくとも、子どもの生命・生存の権利(憲法13条、条約6条)の確保とそのための安全基準の制定・遵守(条約3条)があってほしい。
 少なくとも東京都の建築安全条例でも指摘していたように、やむをえず子どもたちを高層校舎に押し込めるのならば、「安全上支障がない」ことが、子どもに対してのせめてものおとなの責任の果たし方である。これは、教育施設に限らず、あらゆる高層施設、高層住宅でも、おとな社会の責任のとり方であると思う。

Ⅲ 施設瑕疵がまねいた麻貴さんの悲劇

 では、麻貴さんの5階図書室庇からの転落死亡事故はどうか。おとなの責任を果たしていたか。
 残念ながら、この事故ケースは、“危険物の放置”にあたることは明白である。最高裁の判決に則して言えば、「営造物が通常有すべき安全性を欠いている状態」であり、「公の営造物の設置・管理の瑕疵」(国家賠償法2条1項)にあたる。(最一小判昭和45年8月20日)
子どもにとって不便な、かつ教職員の目の行き届かない5階に図書室を設定し、かつ、自由に出入りができ、腰高61センチの開閉自由な窓から庇に出られる空間を放置していたこと自体は、重大な過失である。この問題は、たとえば、ふたが開けっ放しのマンホールを放置していたことと同質の問題を有しており、言い訳できない。ふたが開けっ放しのマンホールをそのままにして、危険だから近づくな、と安全指導をしたという理屈は通用しない。ふたを閉めて外れないようにして安全にしておく安全管理のみが求められるからである。
(付記:『調査報告書』の末尾で、本件事故とかかわって、「安全教育の充実」を述べているが、本件に限って言えば、安全教育とは別次元の問題であると考えられる。子どもの自主的活動を確保するために、危険な状態そのものを除去するような安全管理が大切である)
 今回の事故も、外見上も危険が明白な窓自体を閉鎖しておけば起こりえなかった事故であり、図書室にかぎをかけて、子どもが自由に利用できなくすることが本来の教育施設としての目的ではなかろう。いわんや「庇に出て遊ぼうとした子ども側の自己過失」などという理由付けはまったく通用しないレベルの問題である。
 なお、窓からの転落事故防止基準については、文部省・小学校施設整備指針による規定が『調査報告書』で示されているので重複は避けるが、この規定の説明として、以下の留意点が示されていることを念のために引用しておこう。
 「カ、外部に面した窓は、児童が誤って転落することがないように、腰壁の高さを適切に設定することが重要である。又、児童が容易に乗り越えられないように、窓下には足掛けとなるものを設置しないことを原則とし、必要に応じて窓面に手すりを設けることが望ましい。」(第6章詳細設計、第3節開口部(2)窓より、文部省・学校施設整備指針策定に関する調査研究協力者会議報告書「学校施設整備指針小学校編について」『スクールアメニティ』1992年4月号所収)
 高層校舎に子どもを押し込まなければならない諸事情が文京区側にあったことは理解できるが、問題は、小学生に5階図書室を利用させることを常態化させておきつつ、その安全配慮が行きとどかなかったことである。学校現場サイドでは、日常の安全点検では気づかなかった、とされているが、高層校舎に子どもを生活させているおとな側には“気づく責任”があったはずである。その責任を果たせなかったのはなぜか、というところが基本的に問われている(教職員の専門的な安全責任)。また、5階に図書室を設置した学校設置者の管理責任も重大である(教育委員会の学校設置責任)。高層校舎にしなければ教職員に課すことのありえない安全管理責任の問題は、本質的には設置者の問題である。以下、本件とかかわる基本的な問題を指摘しておきたい。

Ⅳ 二度と麻貴さんの悲劇を繰り返さないために

基本的な問題は、以下の3点であると考えられる。

1)学校教職員の専門的な安全責任の問題

学校保健法では、「学校においては」、施設設備等の安全点検を行うことが義務づけられてきた。しかし、この安全点検義務の主体については、従来から、教育委員会、業者、学校教職員など幅広く想定され、法規上は特定されてこなかった。
 実際、学校施設設備の安全に関しては、学校保全(漏電、漏水など老朽校舎問題等)、学校防災(火災、震災等)、学校保健(プールの水質検査、衛生管理など)など多岐にわたり、その多くが教育委員会の施設管理、業者、学校薬剤師などによる点検に委ねられているものも多い。その中で教職員による安全点検は、上記の点検の肩代わりを意図するものではなく、本来は、子どもの特性、成長発達上の特徴、自主的創造的な活動などの確保という教育目的性に依拠し、“教育に固有な専門的な安全点検”が期待されてきた。いわば、子どもの特性と自主性をふまえた安全確保が、教職員の教育専門性として要請されてきたのである。
 子どもの特性としての好奇心、冒険心、子どもの自主性の象徴である遊び、学習活動・・・・これらは教育の源泉であり、教職員の仕事の支えであった。しかし、ひとたび事故が発生すると、それらは、一転して子どもの自己過失(それにより、おとな側の責任が免罪できる)に帰するための材料と化してしまうのである。しかし、子どもの好奇心や自主性を自己責任に仕立てあげてしまう行為は、結局のところ教育の本質をゆがめ、教育の自滅をまねくことになる。
 教育は、子どもの命を預かる仕事である。教職員はその専門性にかけて、この自覚の基で、教育活動に伴う安全配慮責任を果たさなければならない。ただし、だからといって今回のような事故について、ひとり教職員のみが責任を負うことは誤りである。
教員は、学校安全に関し、教員養成課程で、あるいは現職教育・研修の際も十分な学習の機会が確保されていない実情がある。かつ、日常の多忙化と厳しい勤務条件、その中での形骸化した安全点検業務、そのような背景を考慮すると、かれらが本来のあり方を見失うことについてひとりせめることはできない。

2)国・自治体レベルの安全基準行政の問題

もともと本件は、しっかりとした学校設置基準があれば、起こりえなかった問題である。
 小学校の校舎、子どもの教室設置に対する階数制限は、東京都条例の問題というよりもむしろ国レベルの学校設置基準の問題である。学校教育法施行規則の16条には、「小学校の設置基準は、この節に定めるもののほか、別にこれを定める。」とある、しかし戦後、四半世紀を過ぎても、学校施設の安全基準などを「別に定める」努力を怠ってきた。設計者に対する技術的援助としての設計指針、整備指針は作成したものの、続発する学校プールの排水口の溺死事故や、高層校舎の転落死亡事故は、国の学校施設安全基準の欠落が引き起こしたものということができる。
 ただし、国の基準の不備を理由に、ただただ子どもの生命の安全が脅かされていく状態を手をこまねいてみているわけにはいかない。少なくとも学校を設置している自治体が、学校安全条例や、学校施設点検基準などの制定と普及徹底をすすめることが不可欠であろう。

3) 地域教育共同体としての学校の信頼関係をつくる
-学校の説明責任と情報公開

 今回の事故で、『調査報告書』作成の動機としては、学校側が事故に対して十分な調査を行わず、また被災者に対しての納得のいく説明がなされなかったことことが大きい。国家賠償制度のもとで、過失責任主義による裁判を想定し、「謝罪」など責任を認めることに対する行政の消極的な姿勢が目立つ。
そこでは、冒頭でのべたように、相互不信に陥らぬような互いの関係改善を図る第三者的調整が求められる。それと同時に、昨年の学校教育法施行規則改正で登場した「学校評議員制度」に象徴されるごとく、21世紀の学校が地域の教育共同体として生き残りの道を模索する中で、住民や父母、子どもとの協力関係を作っていく上でも本件のような学校事故問題が障害となっていることに留意すべきであろう。このような不幸な事態を学校と家庭、地域が共同して乗り越えることによってこそ、将来の地域学校共同体を展望することができる。そのためには、文部科学省も述べている「学校の説明責任」(アカウンタビリティ)を十分果たすこと、とくに二度と麻貴さんの悲劇を繰り返さないように、情報公開し、区内全学校に周知し、教訓化することが大切である。そのため、かつて横須賀市がサッカー事故の被災者と和解し、「教育安全憲章」に合意したような建設的な取り組みが求められているといえる。(永井憲一監修『学校安全への提言』東研出版、参照)

(参照条文)
憲法13条(個人の尊重・幸福追求・公共の福祉)
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
児童の権利に関する条約(子供の権利条約)
第6条1項
締約国は、すべての児童が生命に対する固有の権利を有することを認める。
第6条2項
締約国は、児童の生存及び発達を可能な最大限の範囲において確保する。
第3条1項
児童に関するすべての措置をとるに当たっては、公的若しくは私的な社会福祉施設、裁判所、行政当局又は立法機関のいずれによって行われるものであっても、児童の最善の利益が主として考慮されるものとする。
第3条2項
締約国は、児童の父母、法的保護者又は児童について法的に責任を有する他の者の権利及び義務を考慮に入れて、児童の福祉に必要な保護及び擁護を確保することを約束し、このため、すべての適当な立法上及び行政上の措置をとる。
第3条3項
締約国は、児童の擁護又は保護のための施設、役務の提供及び設備が、特に安全及び健康の分野に関し並びにこれらの職員の数及び適格性並びに適正な監督に関し権限のある当局の設定した基準に適合することを確保する。