教師 松元 忠篤-本件事故調査に関わっての意見

教師 松元 忠篤

学校は、子どもの命を育み、生きる喜びを感じるところである。そこで働く教職員の喜びは、子どもが元気に学校に来て過ごすことである。だから、その子どもが、学校の中で亡くなるというのは、起こり得ないことであり、また絶対にあってはならないことである。しかし起きてしまった。この事実の重さと子どもを学校で失った金子さんご両親の悲しみと怒りを、私は教員として受け止める。
 教員として、指ヶ谷小で働いていた当時の安全点検では、庇(ひさし)の危険性を十分に予見することができなかった。今回の事故が起き、悔やんでも悔やみきれない。もし危険性に気づいて、適切な措置を講じていれば、今回の事故は防ぐことができたことを考えると、本当に申し訳ない気持ちである。私自身、何度も図書室に足を運んでいる。調査する会でも発言したが、「もし庇がなかったり、短い庇だったならば、図書室からの落下を懸念した。しかし、各教室にあるベランダと同じ広さの庇だったためそこからの落下事故は起こらないだろうと、むしろ庇を安全装置のようにとらえていた。」と。しかし調査する会での議論を通して、私自身の認識の甘さを実感するに至った。それは学校の施設、設備を子どもの目線から見る重要性である。体格から見ると、小学生という身長がまだ低い子どもからの視線である。この低い視線から見ると、庇はかなり大きく見えて、安全に見える。さらに心理的に高学年児童の成長についての理解である。「自分だって、できるはず」と背伸びをし、危ないことを越えることに価値を見いだしたり、共通な行為をすることが仲間のあかしとして存在したりするなど、その時期の特徴がある。その意味で、子どもの危険認識についての洞察がなかった。
 またアンケートによれば、児童が庇に降りる行為をしていたことは、かなり前から行われてきたことがうかがえる。庇に降りる児童に気づいた教員もいた可能性もある。その時に、教員間で話し合いが持たれ、施設や設備の改善に生かされなかったことや、後任の教職員に引き継がれていかなかったことが残念である。安全点検が、複数の目で行なわれ、なおかつ上で述べたように、子どもの安全に対する意識を調査するなどして子どもの視点から安全点検を行い、その内容を毎年引き継ぐシステムにする必要があると考える。
 情報公開の手続きにより、入手した職員会議録には、今回の事故についての記載がなかった。事実調査や再発防止のための話し合いが教職員全員でなされなかったということである。しかも、関係児童と一番身近にいる担任教諭さえ、学校が7月に提出した「児童の死亡事故について」という事故報告書を児童が卒業する年度の終わりまで見ていないのである。子どもが亡くなっているのである。一人一人の教師がその事実をどのように受け止め、今、どのように考えているかを吐露する場があっていいはずである。また、児童に対しても、一人一人の気持ちを受け止めるための学校での取り組みはなされなかったという。
「人間関係が希薄になり」「自分だけの世界に閉じこもり」「精神的不安と負担」が大きくなっているといわれる社会で、学校の教職員の間でこのような状況があるということは大きな問題ではないだろうか。調査が十分にされていないので、事故の原因と背景もわからない。だから「再発防止のためにどうするのか」について、指ヶ谷小学校は、これからどうするのかもわからない。また設置者の文京区も、これからどうするのかがわからない。
 学校管理下の死亡事故でありながら、学校長・教育委員会の謝罪がないということは納得できない。今からでも、この転落事故から、教訓をつかみ二度とこのような悲惨な事故が起きないようにする決意と姿勢を示し改善点を示すべきである。そして、何よりも遺族の方々にその内容をつたえ謝罪すべきである。
 図書室に司書がいたら今回のような事故が起こったであろうか。否である。開放する時間だけでも先生がいたら事故は起こらなかっただろう。学校の施設規模は児童の数が最高時のまま保たれている。しかし、教職員数は減らされていく。掃除の監督を例にしても一人の教員でいくつもの掃除場所を監督しなければならなくなる。また、事故が起きた20分休みという時間帯では、どの小学校でも、次の授業の準備、保護者との電話連絡、打ち合わせ、テストの採点や日記指導などを行い、休み時間に校庭や校舎内の見回りなどを実質的にはできない実態がある。この小学校の授業時間帯の特別な多忙化は、中・高校の教職員にも理解されにくいほどである。今回の事故の遠因には、この小学校教員の多忙化がある。もし図書室に司書がおり、教員に校庭や校舎内を見回るゆとりがあれば、今回の事故は起きなかった。東京都の自治体のなかでも狛江市のように子どもたちが本に親しむようにと全ての小中学校に司書を配置しているところもある。このことが安全の確保にもつながっていると考えられる。子どもたちの安全を保つためにもゆきとどいた教育をするためにも学校施設、規模に応じた教職員の増員は不可欠である。
 教育行政の非人間さに言葉を失う。こうした学校や教育委員会の姿勢が、正確な事実と原因を究明する様々な動きの障害となったことは、想像に難くない。どうしてこのような学校になってしまっているか。文部科学省、都教育委員会、区教育委員会そして、校長・教頭から教諭という上意下達の関係が教育現場にはある。上部から様々な圧力や指示があり、職場での自由で民主的な議論を押しとどめようとする。職員会議で今回の事故が話し合われなかったのを見てもわかる。特にいま、教育委員会からの「指導・助言」が強くなっている。そして、さらに教職員から自由に民主的に話し合う場所を奪ってしまう、成績主義に基づいた人事考課制度が生まれようとしている。それは、教職員の自由で民主的な学校づくりをさらに困難にするものである。教職員にとって学校が自由に論議できる場であってこそ、未来を担う子どもたちの成長が期待できる。教職員の自主性を尊重した教育行政が行われることが必要である。